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人は無意識に誰かの生を否定している

  • 三木崇稔(みき たかとし)
  • 2018年12月14日
  • 読了時間: 5分

皆さん、こんにちは。

デーム・コーチングオフィスの三木崇稔(みき たかとし)です。


僕は昔、大学の近くの居酒屋でアルバイトをしていました。

そして、初めてのアルバイトだった僕はたくさんミスをしました。



その時に勤めていた居酒屋の店長がとても厳しい人でした。


ミスをする度に、烈火のごとく怒鳴られ、時にはカウンターのお客様の目の前で5分ほど延々と叱られたこともあります。その時によく言われていたのは、「お前は仕事が遅いくせにミスが多い」という言葉でした。


そんなある日、突然シフト表に僕の名前が入らなくなったのです。それはおよそ一ヶ月にも及びました。


そこではシフト表は一週間ごとに店に張り出される形式で、従業員一人ひとりに配られることはなく、いちいち店に出向いて、シフト表を確認しなければならず、僕はシフト表を出向いて見に来なければならない面倒さと空しさを感じていました。


そんな一ヶ月を過ごした後、久しぶりに一週間のうち一日だけシフトに僕の名前があったのです。シフトの日、出勤し、仕事をしていると店長は僕にこう言いました。


「思い知ったか?」


僕は何のことかさっぱりわかりませんでした。僕としては、なぜ急に一ヶ月間、シフトから外されていたのかさえわからないのに、何を思い知るのかは検討もつきません。

なので、僕はどういう意味なのか店長に尋ねたのです。


すると店長は、とある従業員の方を指さしました。僕はその方に見覚えが全くありません。なので、僕はますます困惑していると、店長は言いました。


「彼は留学生で、ここにきて3週間くらいやけど、彼はもう既に仕事を覚えたんだぞ。わかったか?お前がいかにできない人間であるかが。もっとやる気を出せ!」


その言葉を聞き、仕事が終わってすぐ家で退職願を書き、翌日すぐ提出し、そのまま辞めてしまいました。



今思えば、きちんと一ヶ月前くらいにきちんと辞める旨を伝えてから辞めるべきでしたが、あまりのショックにこれから一ヶ月、そこで働いていける自信も気持ちも持つことができなかったのです。それから一年あまりアルバイトは怖くてすることができませんでした。


人に見下される、人に馬鹿にされるなど人に認めてもらえず、突き放されるのはとても辛いことです。ただ、オーストリアの精神科医で心理学者のヴィクトール・フランクルの言葉に次のようなものがあります。


「苦しみが自分をよりよい自分に変えてくれるなら、苦しみにも一つ意味があるのだ」


僕がこの体験から学んだことは、人の誤りを指摘し、叱ることに成果の向上がないということでした。勿論、この経験だけでは気づくことはできなかったでしょう。このことに気づくことができたのは、次に働いたパチンコ店の店長の存在があったからだと思います。



その店長は、とても寡黙な人でした。


けれど、僕に足りないことや改善点だけではなく、良かった点や懸命さを感じた点などのプラス面をきちんと伝えてくれ、怒鳴ったり、怒り狂ったりすることなく、いかなる時も冷静に従業員と接していました。


その店長のおかげで、自分はきちんと仕事をすることができている実感を持つことができたと思います。そして、その出来事の後から、お客さんに感謝されることや褒められることがぐんと増えました。


人がどんな時に自分のパフォーマンスを上げることができるのか?

それは人に愛されたり、人にほめられたり、人に必要とされたりなどの人から認められるときだと僕は思うのです。それこそ、こういった承認欲求は、食事や水、睡眠などと同じくらい人間には必要不可欠なものだといっても過言ではないでしょう。


居酒屋でのアルバイト経験は、このことを僕に教えてくれたのだと今は感じています。



「自分は誰からも必要とされていないのではないか?」

誰からも必要とされないこと、それは人の死と同義です。


人の死は、心臓の鼓動が止まり、生命活動が維持できなくなった時に訪れるものではありません。今生きている人々の誰からも忘れ去られてしまった時、その人は本当の意味で死を迎えます。そう考えると、人の生はその人の身体にとどまらず、人々の心の中で息づいているのでしょう。


だからこそ、人々から必要とされなくなった時、人は生きるのが辛くなるのだと僕は思います。仮に、「誰からも必要とされなくてもいい」と決意したとしても、人から存在を認識されず、無視をされ続ければ、その決意はいとも簡単に崩れ去ってしまうと思うのです。


そうならない為にも、人は徳を積まなければならないと僕は考えています。

人のためになることをし、人に感謝されることをする。そういった徳を積み重ねることで、人々の中に自らの生を宿すのです。


そして、今度は他の誰かの生を自分の中に宿す、これが人を認めるということです。


人は知らず知らずのうちに、誰かの生を奪っている。それは、その人の身体の生命活動を止めることはなくても、その人の存在を否定したり、無視したりして自分の中にあるその人の生を外に追い出してしまうことで、生を奪ってしまっていることになると僕は思います。


人から意図的に承認を求めることはできません。

けれどたとえ承認を得られなかったといって、その人を認めようとしないのは、不毛なことです。


人から認められる人はどんな人か?

それは、誰よりも自分を含めたたくさんの人を認めることができる人だと感じています。



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